舒川新城里
文化財名 | 種別 | 所在地 | 文化財説明 |
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舒川李夏馥家屋 | 重要民俗資料第197号(家屋) | 忠清南道舒川郡麒山面シンマク路57番ギル32-3 | 李夏馥家屋は中部地方の伝統的な農家で、伝統技法によって母屋の内側の屋根が奥より長く造られている部分が興味深く、嫁用の部屋が個別に備えられている点が独特であり、風水上良いとされる明堂の地に南西向きに建てられた茅葺屋根の家。 |
韓山郷校 | 市道記念物第131号(郷校) | 忠清南道舒川郡韓山面韓山郷校ギル76-31 | 昔の韓山地方の人々の教育と教化のために国が建てた朝鮮前期の教育機関。 |
舒川郷校 | 市道記念物第130号(郷校) | 忠南舒川郡舒川邑郡司里315 | 舒川地方の人々の教育と教化のために国が建てた朝鮮前期の教育機関。 |
庇仁郷校 | 市道記念物第129号(郷校) | 忠清南道舒川郡舒川邑舒川郷校ギル53-5 | 庇仁県の人々の教育と教化のために国が建てた朝鮮前期の教育機関。 |
舒川長巌鎮城 | 市道記念物第97号(城地/城郭) | 忠南舒川郡長項邑ファソンギル90 | 舒川長巌鎮城は、海抜90.1mの候望山が長く伸びた南西部の縁に朝鮮中宗時代に築城した鎮城である。 |
舒川南山城 | 市道記念物96号(城地/城郭) | 忠南舒川郡舒川邑南山里 山22-1外4筆 | 舒川南山城からは周囲が一望でき、黄海の様子や錦江入口を監視することができるため、百済時代から辺境を守る百済の軍事的要衝の地であった。 |
李穡先生墓一円 | 市道記念物第89号(墓) | 忠清南道舒川郡麒山面書院路172番ギル35 | 高麗後期の文人であり、学者である牧隠李穡先生の墓である。先生は圃隠鄭夢周、政隠吉再と共に、三隠の一人である。 |
李商在先生生家址 | 市道記念物第84号(生家/地) | 忠清南道舒川郡韓山面チョンダンギル71 | 独立運動家、民族主義者として1927年3月29日に他界し、韓国初の社会葬を行なった李商在先生の生家で、1972年と1980年、2012年に舒川郡で復元・管理して、生前に残した遺物を展示するために李商在先生遺物展示館を開館運営している。 |
鳳棲寺木造阿弥陀三尊仏像 | 文化財資料第334号(塑造仏) | 忠南舒川郡韓山面虎岩里197 | 鳳棲寺は居心地の良い静かな寺で、1999年に再建された極楽殿に宝物として指定された木造阿弥陀三尊仏像が奉安されている。 |
権惺先生影幀 | 文化財資料第325号(絵画類) | 忠南舒川郡麒山面花山里 | 権忭と権惺の影幀を奉安していたが、1868年大院君の書院撤廃令が下されたことで宗家に移され、現在の麒山面花山里に影堂を建てて、そこに權惺先生の影幀を奉安した。 |
栗里祠 | 文化財資料第303号(祠廟斎室) | 忠清南道舒川郡庇仁面ソンゴム路287番ギル18 | 高麗時代の申崇謙将軍を中心に平山申氏7人の位牌を祀った祠堂で、元は門中祠堂として世徳祠と称された。 |
韓山邑城 | 文化財資料第134号(城地/城郭) | 忠南舒川郡韓山面芝峴里10 | 韓山邑城は1914年までは東西南北に4大門があり、邑城の姿を正しく備えた城であった。朝鮮中宗の時、倭寇の侵入を防ぐために石で積んだ石城である。 |
舒川邑城 | 文化財資料第132号(城地/城郭) | 忠清南道舒川郡舒川邑郡庁路54番ギル27-16 | 舒川邑城は朝鮮世宗時代に築城された石城である。伝説によると、女性100人で城を築くのと怪力の持ち主(力持ち)1人でホンヨ橋を架けるのはどちらが速いか、という賭けが行われ、城を完成させた女性たちが歓声を上げて喜ぶ間に力持ちも慌てて最後の石をはめ込み、最終的に引き分けになったという伝説が伝えられる邑城。 |
支石里三層石塔 | 文化財資料第131号(石塔) | 忠清南道舒川郡鍾川面支石道ギル39-28 | 高麗時代のものと推測されるこの三層石塔は、元来、希夷山にあったが、日本植民地時代に日本人が自国に持ち帰ろうとしたものを支石里の住民が阻止し、その過程において旧奇洞駅の地に保存されることとなった。 |
烽南里三層石塔 | 文化財資料第130号(石塔) | 忠南舒川郡馬西面烽南里山58-3 | 烽南里にある高麗時代に作られた三層石塔で、塔の中から貴金属が発見されたが日本植民地時代に日本軍によって滅失させられ、後方にある寺跡とともに残っている三層石塔。 |
秀岩里三層石塔 | 文化財資料第129号(石塔) | 忠南舒川郡文山面秀岩里231 | 朝鮮時代末期、この地方の長によって豊年を祈願して建てたものと伝えられる。二重基壇の上に三層からなる塔身が積まれており、塔全体を一つの石で造成した点が珍しい石塔。 |
李穡神道碑 | 文化財資料第127号(石碑) | 忠清南道舒川郡麒山面乾芝山ギル89-20 | 神道碑は、王や高官などの生涯の功績を碑石に記録し、墓から近い大通りに建てるものである。李穡神道碑は、高麗時代後期の文臣で学者の牧隠李穡先生を称えるために建てられた神道碑。 |
文献書院 | 文化財資料第125号(書院/不動産) | 忠清南道舒川郡麒山面書院路172番ギル66 | 文献書院は、高麗末の忠臣・牧隠李穡先生と稼亭李穀先生の学問的業績と徳行を追慕するために建てた書院である |
馬梁里椿の森 | 天然記念物第169号(自生北限地) | 忠南舒川郡西面馬梁里275-1 | 約300年前、海の上に花束が浮いている夢を見た馬梁僉事が実際に海に行ってみたところ、本当に花が浮いていたため、これをすくって陸地に植えた。これが、冬栢(椿)の名所「馬梁里の椿の森」の嚆矢と伝えられる。 |
稼亭牧隠先生文集版 | 市道有形文化財第77号(典籍類) | 忠清南道舒川郡麒山面書院路172番ギル47 | 高麗後期の大学者であると稼亭李穀と彼の息子の牧隠李穡の文集を出版するために作成されたもので、韓国の文化史だけでなく国文学史の貴重な資料である。 |
舒川扇の匠 | 市道無形文化財第21号(工芸技術) | 忠南舒川郡韓山面芝峴里183 | 扇の機能保有者である李漢圭氏は、幼少時代から父李ウルヨン氏に孔雀扇の製作技法の伝授を受け、孔雀扇製作の伝統を受け継いでいる。 |
舒川苧山八邑キルサムノリ | 市道無形文化財第13号(ノリと儀式) | 忠清南道舒川郡韓山面忠節路1089 | 新羅琉璃王(在位24~57年)が2人の王女に命じ、部内の女性を組み分けして機織をさせ、秋夕の日にその結果を審査し、負けた方が勝った方に酒と料理をもてなしたという「三国史記」の記録に基づいて、民俗ノリの保存・継承を図るためにキルサム(機織)ノリを体系的に考証し構成演出を通して「苧産八邑キルサムノリ」を発掘、毎年カラムシ文化祭で試演され、国内外に広く知らしめている民俗ノリ。 |
舒川大木匠 | 市道無形文化財第10号(工芸技術) | 忠南舒川郡文山面金福里632 | 20歳を迎えた年に父親の跡を継いで韓国の古典建築を継承しようという執念で文化財の補修技術を練磨、国宝第55号の法住寺捌相殿ほか52の指定及び非指定文化財を補修し、文化財の原形保存に貢献してきた。特に木工(都辺首)部門の建築技術に優れ、造形の美と調和が素晴らしく、補修技術に長けている重要無形文化財。 |
韓山素麴酒 | 市道無形文化財第3号(食品) | 忠南舒川郡韓山面虎岩里67-2 | 百済時代の宮廷酒として百済の流民たちが国を失い、その悲しみを忘れるために仕込んで飲んだという香りと味が独特な優れた地酒。 |
韓山細苧(セモシ(細苧)布織り) | 重要無形文化財第14号(無形遺産、工芸技術、繊維工芸、織物工芸) | 忠南舒川郡韓山面芝峴里60-1 | 韓山カラムシは昔から利用されてきた織物で、別名「紵布(チョポ)・紵絺(チョチ)」とも呼ばれ、カラムシの茎の皮からとれる繊維を材料とする。 |
乾芝山城 | 史跡第60号(城地/城郭) | 忠清南道舒川郡韓山面忠節路1089 | 乾芝山城は錦江下流の交通の要地に位置し、百済復興運動軍の拠点であった周留城と推定される百済後期に造られた新しい形式の山城。 |
舒川城北里五層石塔 | 宝物第224号(石塔) | 忠南舒川郡庇仁面城北里182-1 | 舒川城北里五層石塔は、百済の比衆県(現在の庇仁)に建てられた百済様式の石塔である。百済様式の石塔には、扶余無量寺五層石塔、扶余長蝦里三層石塔、益山王宮里石塔、公州清凉寺址石塔(男妹塔)などがある。百済様式の石塔の地方分布を基に、その伝播経路を確定するにあたって非常に重要な価値のある石塔である。 |